VOCALOIDは透過装置なのか


先日から、VOCALOID関連のエントリが続いていますが、2つ前のエントリを書いているときに、3本立てくらいにしようかな、というサザエさん的な考え方をしてしまったので、今回このような形になってしまいましたが、このエントリで最後になりますので、大目に見てください。

さて、1つ前のエントリ、VOCALOID界隈の「支援」について考えてみた - 3LDS -Love,Like,Life!! Diary@SmiLey!- では、VOCALOIDに「支援」される文化が根付いているのは、その周辺の方々のつながりの深さ・密度とクリエイターに対する敬意・好意から起きているのかもしれないこと。しかし、その文化も固定されだしてきて、広がりにくくなってきているのではないかということを書きました。今回はそのあたりも関係しつつどちらかというと、以前書いた、それぞれの「初音ミク」のイメージに思うこと - 3LDS -Love,Like,Life!! Diary@SmiLey!- のエントリに関係するような話になっていると思いますので、こちらも参考にしていただけると幸いです。


本題。VOCALOIDがここまで広がったのは、そのキャラクター性もあると思いますが、「支援」という文化の大部分を担っているのは、もうその中の人、つまり製作者、クリエイターの方々のセンス等に惹かれる部分が大きいのではないかなと思いました。「VOCALOID」というものを通して、その中の個性に惹かれる人が多いんじゃないかな、と。

最近でも、ボカロ先生・ボカロ小学生・開発コードmikiなどなど、新しいものも出たそうですが、それでも注目されるのはもうその中にいる人、クリエイターのほうなんじゃないかなと思います。声や絵が少しずつ違ったとしても、その中の本質的なプログラムはほとんど変わらないわけで、新しい声やなにかが注目されるのは最初だけ。

新しい自分に合う個性を発見するための透過装置。それが今の「VOCALOID」の存在になっている気がしています。もうきっと、VOCALOIDとしての個性とかキャラクター性とか、そういうところとは全く違うところで発展していってるのだろうなと。それが密度の高いクラスタを生みやすくなっているんだろうなーと思いました。

となっている今の現状で、「VOCALOID作品を投稿するのに適しているから」という理由でニコニコ動画の分け方が音楽からVOCALOIDの専用タグに移ってしまったのは、もうすでに興味のある人しかわざわざ見に行こうとしなくなってくるんじゃないかなと、新しく興味を持つ人は少ないんだろうなーと思います。興味を持ったとしても、コミュニケーションという面から見ると、クラスタの固定が進んでいる今の状態で、既存のものに新しく入っていくというのも難しいんじゃないかなーと思います。

入りにくさ、というのはわたしが個人的に感じていることかもしれません。入らなくてもいいのだけど、好きなら関わりたくなる、そして関われる環境が整っている以上、どうしてもそういう欲求みたいなものを止めるのは難しいです。それがたとえばSNSだったりtwitterだったりするものがあって、それに参加してしまっているから起こってしまうことなんだろうな、とは思っていますが。そこにもうクラスタが出来てしまっている中に飛び込んでいくというのは勇気が要ると思います。

内容が途中から大きく逸れてしまいましたが、書きたかったことをまとめると、

  • VOCALOIDはもういまやクリエイターの個性を表しやすい透過装置としての役割が大きくなっているのだろうなということ

ということだけです。そこにいろいろなものが付加してるだけなんだな、とここまで書いて自分で反省しています。

キャラクターとしてのVOCALOID、透過装置としてのVOCALOID、コミュニケーションツールとしてのVOCALOID、いろいろな側面を持ちつつもすべてそれを内包しているのは、やっぱり「VOCALOIDには基準となる設定が少ない」ことがあってこそのものだと思います。

これからもどんどん発展していくのでしょうけど、VOCALOIDの終着点というのはなくて、拡散していくばかりなのだろうなと思いますが、それがコミュニケーションとしての側面のほうも同じように広がっていかないなら、きっとそのうち同じような展開の繰り返しだけで終わっちゃうんだろうなーと思います。それはあまりにももったいないことだと思うので、なにかいい方法があればいいのにな、って思っています。


おわり。