長門が「あたし」と言ったとき



とりあえず、初めてライトノベル読んだよ記念に、感想を少しだけ。

涼宮ハルヒの憂鬱』の最後のキョン長門のシーン。キョン長門に、また朝倉みたいなのに襲われるのか、と聞いたら、長門はこう言った。

「だいじょうぶ」「あたしがさせない」と。

そこだけ、長門は今まで「わたし」と言っているのに、「あたし」と言っている。

全部読んできてここがものすごくいいな、と思う。



普段ここでエントリーを書いている時に、わたしはかなり意識して「わたし」を使っている。もちろん「あたし」でもいい(本当は「あたし」という響きがかなり好き。)し、「うち」でも「ぼく」でも「おれ」でも、漢字で「私」でも問題はないんだけど、それでもわたしは「わたし」を選んで使っている。

それはわたしが書きたいと思っているエントリーの内容に「わたし」が1番しっくりくるからかな、と思っている。そういうエントリーが書けているかはさておいて。

やっぱり、字面からくるイメージが大きいのかな。漢字は固いイメージがあるし、ひらがなはやわらかく見える。

あとは音だとか雰囲気だとか。ここらへんは頭悪いのでうまく説明出来ませんが悪しからず。

さて本題。

長門は登場から無口で無感情、というキャラクターを貫いてきた。そんな彼女は一人称に「わたし」を選んだ。他のキャラクターが「あたし」を使う中で、長門が使う「わたし」はどこか無機質なものに聞こえて、長門有希というキャラクターにしっくりきて、より際立たせているように思う。

そんな彼女が最後に「あたし」を使ったのはなぜなのか??

それを考えていて、行き着いたのがここ。

ハルヒキョンが新しい世界に飛んだ時の、長門とのチャット。

「また図書館で」

図書館。不思議な事を探しに行って立ち寄った場所。そこで長門は、初めて、「ひと」になったんじゃないかな、とわたしは思っている。

集合時間に遅れているにもかかわらず、キョン長門の貸し出しカード作ったりなんやかんやしていた。そして、その借りた本を「大切そうに」長門は抱えていた。

初めて、そういう「ひと」の(長門の言うところの有機生命体の)優しさに触れた瞬間。ヒューマノイド・インターフェースだとかそういうこと抜きに、きっと長門は嬉しかったんじゃないかな、そうだったらいいな、と思う。すっごいいきなり個人的感想なんだけど。

だからあの「あたし」は、長門の告白のように聞こえて仕方ないのだ。報われそうにはないけれど。

とにかく、長門はいいねえ。続きはまだ全然読んでいないけれど、また長門が「あたし」を使うことがあるといい。そうなっていたら嬉しいなあ。