シカゴ



最近、自分が映像として思い出せる記憶が、ほんの1年くらい前までであるということに気がついた。

数日前に、《「コピーのコピーのコピーのコピー」の記憶を思い出すのはもうやめよう。》と書いたところだけれど、それはほとんど、知識として覚えているものだった。数学や理科の公式や法則と、同等の記憶となんら変わりない、ただの知識。

「思い出の記憶」自体が上手くいっていない。これは昔から考えていたことだった。小学生の頃から、特に今の自分の根幹を作り上げていると思われるもの以外は、ほとんどの映像が抜け落ちている。その当時の友達の顔も、ほとんどを思い出すことが出来ない。

記憶が上手くいっていないのだから、コピーも出来るはずがなくて、それはもう自分でもどうすることも出来なくて、どこが欠けているのかもわからないからどうしようとも思えない。人としての欠陥がそういうところに表れているんだろうと思う。

記憶が上手くいかないのは、これまでの居場所毎に、自分に有利なキャラクターを作り上げて行くために、嘘と脚色とごまかしを積み重ねてきた為だろうか、とは思うけれど、それを認める訳にはいかないし、認めてしまえば自分の存在を否定してしまうことになる。

また記憶を積み重ねられるようにするには、醜い本物を出さなければいけないのか。嘘も脚色もごまかしも、全てを無くすことは、限りなく不可能だ。

わたしは、作り上げ続けるだろう。

嘘と脚色された言葉と自分を。



『もう何にも言えないよ

そんなつもりじゃないの

デタラメしゃべりだす

ああ何て言えばいいの

そんなつもりじゃないの

アレコレしゃべりだすわ』



best

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